文章作成/思考手段としての文章
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思考のための文章は名文であることより、上の意味で詭弁((A)(B)(C)も含めて)になっていないか、ということが最も重要なことである。 | 思考のための文章は名文であることより、上の意味で詭弁((A)(B)(C)も含めて)になっていないか、ということが最も重要なことである。 | ||
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2014年8月29日 (金) 01:48 時点における最新版
文章作成 > 思考手段としての文章
目次 |
思考手段としての文章
考えに抜けがないか
人間は人に伝える目的がなくても、文章を書くことがある。それは自分の考えをまとめたり、考えに抜けがないかどうかチェックするようなときである。そんなに名文でなくても箇条書き程度でよいことが多い。
しかし注意しなければいけないのは、文章は思考を深めるのに役立つ手段ではあるが、完全なものではない、ということである。例えば
「なぜテーブルの上に花束があるのか?」
を考えるとき、
「今日は私の誕生日だから、家族が置いたのだろう」
と考える。しかし家族の1人が友人の病気のお見舞いに行こうとして買っておいたのかもしれない。あるいは隣人への贈り物を、隣が留守だったので預かっただけかもしれない。
このようにある結果を齎す状況は殆ど無数にあるので、文章を基にする思考は不完全である、というより間違いやすいものである。
説明文の問題点
しかし原因の追求を人間は言葉によって欲しがるものである。例えば「なぜ雨がこんなに降り続けるのか?」を皆が知りたがり、気象予報士はそれを「不連続前線が動かないためだ」というように説明する。しかしそんな説明は「雨雲が去らないからだ」と殆ど同義で、説明になどなっていないのだが、多くの人はそれで納得する。
この種の説明文の問題点は、その場は誤魔化せても、本当の説明になっていないことである。まず
- (A)「不連続前線が動かないのはなぜか?」ということも説明を要する。
「低気圧が動かないためだ」、そしてそれは「偏西風が南に降りているためだ」と言えるかもしれない。しかしその原因はまた「ラニーニャ現象のせい」だと言わなければならない。そしてそれは「地球温暖化の影響である」となり、それはまた、...というように延々と続く。多くの人が異論を挟まないところまで原因を遡ればやっと終了する。しかし原因を遡ることは必要条件ではあるが、十分ではない。
- (B)「不連続前線があると必ず雨が降るのか?」というように、原因と結果の鎖に例外がないか確かめなければいけない。
例外があるとすればその場合ではないことを検証しなければいけない。例外が多岐に亘るときはこれは大変な作業になる。
- (C) 原因と結果の連鎖を示せたとしてもそれでも十分な理由になっていない。
その連鎖を打ち消すような現象があるかもしれない。例えば「ドミノ倒し」という遊びがある。
今99枚のドミノがうまく並べられているとする。「1枚目のドミノを倒せば50枚目のドミノは倒れるか?」を考えてみよう。1枚目が倒れれば2枚目が倒れる、2枚目が倒れれば3枚目が倒れる。...よって50枚目のドミノは倒れる。
しかしこの説明はドミノが後ろに倒れる方向での推論ばかりやっていて、逆の側の現象については言及されていない。例えば誰かが1枚目が倒される瞬間に99枚目を前方に倒せば50枚目のところで倒れる連鎖は止まってしまう。つまり逆の要因になる現象は起き得ないことも言わなければ、正しい推論になっていない。
- (D) その他の論理学的な間違いが入っていないか?
よくあるのは不適切な前提をつけてしまうことである。 「検察官は世の不正をにくみ、正義を実現するために日夜血のにじむような苦労をしている」「従って検察官が自ら不正をすることなどありえない」 これなどは前提の中に結論が紛れ込んでしまっている。
詭弁
その他たくさんの、故意あるいは無知による、間違いやすい論理学的文章がある。これらは「詭弁(Sophism)」といい、たくさんの例が以下にある。
いろいろな危険があるとはいえ、思考の道具として文章は役立つのである。冷静に状況を把握し、隠れた問題などを発見し整理するのに役立つ。しかしその際上の (A)(D) の問題が潜んでいないか注意しなければいけない。そうでないと、自分を欺くだけでなく、人を欺くおそれがある、ということであり、しばしば自己の人生の破滅につながる。
学校の教科書の文(飛行機がなぜ飛ぶか、とか、虹がなぜできるかとか)に間違った論理が入っている。政治家の言はひどい詭弁に満ちていることが多い。マスコミに出てくる多くの知識人の発言も、新聞の論説の文章もそうである。要は一人一人がそれらの嘘を見抜く力を身につけるしかない。
思考のための文章は名文であることより、上の意味で詭弁((A)(B)(C)も含めて)になっていないか、ということが最も重要なことである。